津名道代作品年譜 2007//現在

(1) 昭和49年(1974年)まで

 

◆昭和8年 1933

 8月21日生まれる。 (和歌山県海かい草そう郡川かわ永なが村大字川かわ辺なべ566番地にて)

 父・肇、 母・壽賀子の長女。

 

◆昭和12 1937

 春 父の転勤で神奈川県横須賀市中里町豊ノ坪に父母と共に転居。 同地、 横須賀聖心幼稚園 (3年保育) に通う。

 

◆昭和13 1938

 春 父の転勤で奈良県奈良市法蓮一条町949に転居。 父は大阪府庁に勤務。 近所の愛の園幼稚園に通う。

 

◆昭和14 1939

 幼稚園に。 はじめて俳句のマネゴトをつくる。

 

◆昭和15 1940

 小学校尋常科一年・奈良市立奈良第五尋常高等小学校入学。 クラスの回覧雑誌 「子ども隣組」 をつくる。

 

◆昭和16 1941

 国民学校初等科2年生。 校名変更―奈良市立佐保国民学校。 校誌 「わかな」 「書」 を2年生代表で掲載。 12月8日 大東亜戦争勃発。

 

◆昭和17 1942

 国民学校3年生。 校誌 「わかな」 に絵、 作文。

 秋、 奈良県児童芸能科発表大会において、 絵、 特選となり、 三聖地 (伊勢・橿原・熱田の三神宮) 巡拝団に招待参加。 初対面の人ばかりの間で、 初めての1泊1人旅。

 

◆昭和18 1943

 国民学校4年生。

 ○ 「戯曲 アリとキリギリス」 …奈良市佐保国民学校、 夏休み臨海学校 (三重県津市にて) の余興に、 四年美び組のだしものとして、 製作、 演出、 振付け、 作曲、 主演。

 ★12

 猩紅熱にかかり、 中耳炎を併発し、 ほとんど失聴。 聾学校への転校を家族は担任の吉田あさの先生に相談する。 戦局悪化、 敵機の空襲も相次ぐし、 遠路の聾学校通学に困難あり。 かつ吉田先生のすすめもあり、 佐保校にとどまる。

 

◆昭和19 1944

 国民学校5年生。

 春、 はじめて和歌というものをつくる。

 ★9月

 父、 応召 (海軍。 呉鎮守府海兵団入隊)。

 和歌山の本籍地に疎開転校。 (和歌山県海草郡川永村立川永小学校)

 ★11

 中耳炎 (乳にゅう嘴し突とっ起き炎) 手術 (前年入院通院した奈良市船橋町の沢井病院にて)。 当夜、 空襲警報発令中の緊急手術であった。 麻酔薬なし、 食糧なし。

 ★12

 この月から翌年2月の間、 入院中に 「立身出世を志すな」 と言う声だけの夢を見る。 わが精神史の出発なり。 (当時、 その意味を知らず。 かつ何となく大人に尋ねるのがはずかしく、 辞書も手元になくて、 しばらくは意味を知らぬまま秘めごとのごとくしていた。)

 翌年3月退院、 学校へ復する。

 

◆昭和20 1945

 国民学校6年生。 空襲あい次ぐ。 本土決戦に備え、 川永国民学校は軍隊が駐留、 教室の半数は兵舎となる。 授業は農家の手伝いがほとんど。 紀伊水道は連日、 アメリカ軍の爆撃機B29や艦載機グラマンの関西方面への通路となる。 7月9日和歌山市空襲被災。

 ★8月

 敗戦。

 ○ 「科学の力」 ……敗戦後の二学期に書いた作文。 日本は科学の力で連合軍に敗れた。 これからは科学の時代だ。 いろいろなことをしっかり科学する力をつけねばならない。 ―といったこと書いてある。 (それからあと二三年、 「動く実験室」 という子供向けの科学雑誌を愛読していた。) この昭和20年体験は、 のち 「秋の瞳」 (昭和44年作) に。

  (歳末 裏の柴小屋にて suicide を計るが未遂)。

  (総じて昭和18年末 「失聴」 後、 昭和24年3月中学卒業頃までの 「難聴児」 体験は、 50年後に初めて 『難聴者の生理と心理』 の第U部に書く。 部分的には 『交わりの人間学』 にも。)

 

◆昭和21 1946

 ○ 「私の志望」 …三学期、 卒業を目前に国語の授業で書いた作文である。 自分は幼い頃から医者になって病気の人々を助けたかった。 女でもなれるから。 しかし、 大病で耳が聞こえなくなったので、 聴診器がつかえない。 だから医者にはなれなくなった。 しかし、 何か人の役に立つことをしたい。 ―といったようなことを子どもらしく書いてある。 末尾の一行は、 今も憶えているが、 「私はもう一度ゆっくりと考える。 かげ(隠)で働くことのたふとさを…。」 というのであった。

 ★3月

 和歌山県海草郡川永村立川永国民学校初等科卒業。

 ★4月

 和歌山県立和歌山高等女学校入学。

 ○ 「奥の細道をよみて」 (夏の自由課題のエッセイ) をかく。 自分の蔵書は 「のらくろ」 しかなく、 家に年齢相応の本もなく、 女学校も空襲で全焼して図書館もなかったため。
◆昭和22 1947

 ★4月

 学制改革 (同上校併設中学校二年)

 ○日録エッセイ 「断々片々」 を書き始める。 昭和221231日より。 これは現在なお継続している。

 ○授業科目に 「自由研究」 というのが新設された。 総題を 「水の研究」 と届け、 物理、 科学方面から始め、 紀ノ川を窓口に、 自然、 人文の中の水を追求しだしたメチャメチャなもの。

 ★6月

 天皇陛下、 和高女復興ご視察、 「書」 天覧を給う。 ちなみに女学校・中学校・高等学校を通じて、 好きであり得意でもあった学科は、 英語と物理であった。 数学は幾何が超好きでのめり込んだが、 他の解析などの分野は、 どうもあやふやなのであった。

 

◆昭和23 1948

 ★4月

 学制改革にて、 和歌山市立城東中学校 (新制中学校) へ転入。

 テニスにばかり熱中。 「断々片々」 書き継ぐ。

 

◆昭和24 1949

 ★3月

 和歌山市立城東中学校卒業。

 ★4月

 高校1年生。 和歌山県立向陽高等学校入学。 (小地域学区制で、 昔の旧制県立海草中学校の校舎。)

 ★8月

 ○小説 「若草山の下」 400字詰30枚)。 (敗戦後それまでと余りに180度転換したアメリカ流行ばやりに、 違和感と、 大人への不信感をもち、 日本にも良きものがあろうではないか―と、 みょうに哀しい気にとらわれた。 育った奈良をしきりに思った。) 

 ★11

 ○ 「今日の文化の日に」 「月刊紀州」 昭和2412月号所載、 和歌山県高校弁論大会出場原稿) (鳥たちの 「のど自慢大会」 の話からはじめ、 皆それぞれ自分の鳴き方を競い合ったが、 オームは 「私は、 どなたの鳴き方も上手に真似ることができます。 どなたのにしましょう?」 とあたりを睥睨した。 聴衆は 「そんなものでなく、 あなた自身の声を聴きたいのだ」 と騒然となった。 日本も戦争には敗れたが自分自身の声を大切にして、 しっかり国作りをせねばならないと思う。 ―という趣旨。 あまりパンチがきかなかった。)

 

◆昭和25 1950

 ★春、

 休暇を利用し、 母の実家 (奈良県生駒郡郡山町  現、 大和郡山市) を拠点に、 大和古寺を訪ね、 法隆寺・東大寺三月堂でわが精神史にひとつの開眼あり。 (そのいきさつは、 次の 「仏像のささやき」 や、 のち昭和44年の連載随筆 「南都八景」 のうちの、 「太子みち」 「雄々しき観音」 で語られている。) 耳が不自由になったので、 将来は農業をしながら、 日本の文化史を勉強したい願をもつ。

 ○ 「仏像のささやき」 (随想)

 ○ 「熊谷蓮生房の或る日」 (戯曲)

  (向陽高等学校生徒会機関誌 「向陽」 第5号 昭和2511月3日発行所載。 同校二学年二学期)

 ★秋

 和歌山県高等学校英語弁論大会に向陽高校代表で出場。  (おそらく発音は全出場者中もっとも下手だったはず。 ただ原稿を自作した点が取り柄。 題は失念。 冒頭の一文が The Military Japan has broken down. だったように記憶している。)

 

◆昭和26 1951

 ○ 「実朝の日記」 (小説) 「向陽」 第六号。 昭和26年3月1日発行。 同校二学年三学期)

 ○ 「何処へ行く」 (小説) 「向陽」 第七号。 昭和261220日発行。 同校三学年二学期)

 この年、 5月に盲腸炎にて手術。 腎盂炎を併発。 自宅で病臥。 一学期を棒に振る。 受験勉強どころにあらず。 但し、 病床中、 平家物語や幾何学に熱中する。

 

◆昭和27 1952

 ★4月

 奈良女子大文学部史学地理学科史学専攻へ入学。 寄宿舎に入る (三寮三舎)。 4月より日本育英会奨学金を受く。 4月28日、 サンフランシスコ条約が発効。 日本、 7年間の連合国軍による占領を脱し、 独立を回復する。

 この年は、 「断々片々」 (日録エッセイ) ばかり書いていた。

 ○ 「受験記」 母校向陽高校文芸部の依頼で校誌 「向陽」 第八号に載す。

 

◆昭和28 1953

 ★1月2月

 大学の図書館で借出した親鸞の 「教行信証」 をよみ、 心身慄えおののく。 かつ懐かしき感慨全身をゆさぶり、 ほとんど1月〜2月、 2ヶ月間、 茫として他事手に付かず。 ―その間ときどき、 夜半、 寄宿舎の中庭にドテラを着込んで空を仰ぎ佇ち尽くす。 宇宙に漲る壮大な力強い〈交わり〉構造 (往相廻向・還相廻向の対流循環) の音響を聴く。 ―そのため、 同舎の上級生、 ひそかに寮監に報じ要注意者 (自殺の怖れのある者) として、 見守ってくれたそうである (あとで聞いた話)。 ありがたい友情であった。

 1回生学年末レポート草稿にて、 現在手元に残れるもの、 世界文学 (一般教養) の次の一編のみ。

 ○ Alles Ich kann ロマン・ローラン 『ジャン・クリストフ』 の伯父ゴットフリートについて ―」

 

◆昭和29 1954

 ★4月から大学3回生

 奈良女子大学寄宿寮寮歌応募当選する。

 耳のせいもあって、 懊悩し、 学校へほとんど出ず、 行商(※)ばかりする。 (※この間のことと、 そこから得たものについては、 『交わりの人間学』 p 127139 『聴覚障害への理解を求めて─発言@』 p100104 。)

 一方で、 前年暮ごろより、 理学部数学科の岡潔先生のお宅へしばしばお邪魔する。

 

◆昭和30 1955

 ★4月 寄宿舎を出、 母の実家 (生駒郡郡山町) から通学。

 ○ 「親鸞における悪人正機思想の形成」  奈良女子大学文学部史学科卒業論文 (昭和31年1月11日提出)。 この論文は、 「寧楽史苑」 第3号 昭和3112月刊に発表(抄出)された。

 

◆昭和31 1956

 この年は、 異例の就職戦線不況。 教職 (高校) は耳の障害で成らず、 聾学校も聴覚障害学生は採用せず。 東京の雑誌編集関係は、 今年は女子学生は採らぬと返事来る。 暗鬱のまま卒業式を迎う。

 ★3月

 卒業式の終った午後、 学内での就職決まる。

 ★4月

 一日付、 文学部副手、 あわせて大学附属図書館に勤務。 奈良市南城戸町に下宿する。

 (月給8,600円と記憶する。)

 ★7月〜8月

 高知大学の図書館司書講習 (文部省主催) に出張。 図書館司書資格を得る。

 ○ 「惜別」  高知県広報 「県民クラブ」 第6巻第9号 (昭和31年9月発行)。 この一文は、 高知県警察本部教養課発行 「建たけ依より別わけ」 第9巻12 (昭和3112月発行) に転載された。

 

◆昭和32 1957

 日録エッセイ 「断々片々」 と短歌ばかり作っていた。

 

◆昭和33 1958

 ○ 「北の旅―土と水の思想」 (小説。 203枚。 未発表)

 旧約聖書の勉強を基本からはじめる。 ヘブライ語も少し勉強はじめる。

 寄宿舎の寮監補佐を兼務する。

 

◆昭和34 1959

 旧約聖書に没頭。

 ★11

 この月より、 メニュエル氏病で京都国立病院に入院。 35年3月まで。

 入院中、 「天地は過ぎゆかん、 されど我が言 (ことば) は過ぎ往くことなし」 の聖句 (マタイ伝2435節) が、 確感として丸ごと体に入った。

 

◆昭和35 1960

 ○ 「陪ばい塚ちょう」 (小説。 同人雑誌・文芸季刊―高知市― 「昼夜」 第6号) 昭和35年7月1日発行。 前年、 昭和34年夏の作。

 この年、 「陪塚」 と同様の飛鳥もの(古代帰化人をテーマとするもの) の連作として長編 「異神」 「蕃紅 (くれない)」 に着手するも、 未完。

 

◆昭和36 1961

 ★7月

 専正池坊月刊機関誌 「花か泉せん」 (北九州市) に随筆を載せはじめる。 (原稿料、 もらえるようになる)

 ○ 「花をわける」 (花泉5月号)

 

◆昭和37 1962

 ★2月

 ○ 「あーさんと赤い椿」 (花泉2月号)

 ★5月

 ○ 「樟くすわかば」 (花泉5月号)

 

◆昭和38 1963

 ★6月

 ○ 「花菖蒲幻想 ―父性の花 その一 ―」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「シャロンの野花 ―父性の花 その二 ―」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「花ひらかしむるなかれ」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「むずかしい」 (花泉9月号)

 ★12

 ○ 「『南無阿―』 の由来」 (小説。 「昼夜」  7号 12月発行))

 

◆昭和39 1964

 ★1月

 ○ 「吾亦紅」 (花泉1月号)

 ★2月

 ○ 「竹二題」 (花泉2月号)

 ★4月

 ○ 「ふりそそぐ花」 (花泉4月号)

 ★5月

 ○ 「花橘の」 (花泉5月号)

 ★7月

 ○ 「柳の葉よりも小さなある町の二人のひと」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「月見草」 (花泉8月号)

 

◆昭和40 1965

 ★1月

 ○ 「ななくさ」 (花泉1月号)

 ★2月

 ○ 「梅林図」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「たった一度のお稽古」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「センチメンタル・ジャーニー」 (花泉4月号)

 ★6月

 ○ 「棘とげ」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「少年の花」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「かやつり草」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「九月のうた」 (花泉9月号)

 この年、 3月末に奈良女子大学文学部助手兼同大学図書館司書を退官。 和歌山の自宅にもどり帰農。 結婚。 5月より自宅離れで塾、 自然発生する。 中学、 高校生、 英数を中心に全課。 のち小学生まで加わる。 生徒たちにより、 いつか、 津名塾という名、 これも自然発生する。

 昭和46年4月より神戸の松蔭女子学院大学 (非常勤講師) に招かれたので、 卒塾した大学生たちが次々と数学などを受け持つ。

 また、 夏休みのキャンプなどにも、 卒塾大学生らが助力する。

 塾は昭和58年3月まで。

 

◆昭和41 1966

 ★2月

 ○ 「水仙あかり」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「下駄」 (花泉3月号)

 ★6月

 ○ 「のらくろ」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「ぎっちょ」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「川」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「大叔父の墓」 (花泉9月号)

 ★11

 ○ 「テーラーの秋」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「こざんまいの紅葉」 (花泉12月号)

◆昭和42 1967

 ★5月

  「日本史のなかの女性」 を専正池坊機関誌 「花泉」 に連載をはじむ。

 ○ 「日本史のなかの女性 1 おおいなる姉―アマテラスとヒミコ」 (花泉5月号)

 ★6月

 ○ 「日本史のなかの女性 2 英雄のかげに―火中に立ちて・ならやま」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「日本史のなかの女性 3 白鳳の女帝―持統天皇」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「日本史のなかの女性 4 野性のうたごえ―万葉にみる庶民女性」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「日本史のなかの女性 5 自己をみつめる眼―かげらふの日記」 (花泉9月号)

 ★10

 ○ 「日本史のなかの女性 6 人間の運命の表現―紫式部」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「日本史のなかの女性 7 つむじ風の底から ―落ち葉のごとく、 たくましい雑草と東国の勇婦たち」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「日本史のなかの女性 8 東国武士政権の母―北条政子」 (花泉12月号)

 

◆昭和43 1968

 ★1月

 ○ 「日本史のなかの女性 9 ふかき淵より―鎌倉仏教と女人の救い」 (花泉1月号)

 ★2月

 ○ 「日本史のなかの女性 10 ある宗教家の妻―親鸞と恵信尼」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「日本史のなかの女性 11 下克上の鳴動のなかで―日野富子」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「日本史のなかの女性 12 サンタ・マリアと天国への渇望―キリシタン殉教史の女性たち」 (花泉4月号)

 

 〔著書出版〕

  『随筆集シャロンの野花』

  発    所 北九州市 第一芸文社

  発    者 中塚 勝博

  装   丁 大野 龍夫

  印    所 高知市 高知印刷株式会社

        B6判、 216頁 写真1

  発行年月日 昭和43年4月1日

  定   価 500

 

 ★5月

 ○ 「日本史のなかの女性 13 四十年の幽囚ののちに―幕藩政治の犠牲・野中婉」 (花泉5月号)

 ★6月

 ○ 「日本史のなかの女性 14 ある女性の一生―西鶴 「好色一代女」 より」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「日本史のなかの女性 15 糸いと機はたとともに―生産と染織文化をになった庶民女性たち」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「日本史のなかの女性 16 世界いちれつ救済の願い―天理教祖・中山みき」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「日本史のなかの女性 17 自由民権運動の捨石―景山英子」 (花泉9月号)

 この月、 「昼夜」 用の小説原稿、 岡潔先生著作集用月報原稿をかく。

 ★10

 ○ 「日本史のなかの女性 18 ちいさい一粒の種―女子高等教育と職業的自立の開拓者たち」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「日本史のなかの女性 19 人間回復への二つの烽火― 「青鞜」 の新しい女たちと米騒動の女房たち」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「日本史のなかの女性 20 女工のちから―資本主義を底辺でささえた娘たち」 (花泉12月号)

 ★この年

 ○ 「古代津名氏考」 を書き始めるも、 未完。

   追々、 他の仕事多忙となり、 書き継ぐ余裕なくなる。 (以下は、 昭和60年時点での、 自身の心憶えのための追加メモ)

 草稿は、 始め頃は、 ごく一般的な 「日本書紀」 「古事記」 「万葉集」 などの古代基本文献の中に現れたツナ氏についてのみ。 その分布と氏族の実体についての個々の実地調査もまだ出来ていない。 最も西方は周防国、 東は近江国である。 (のち、 日向国の式内社・都つ農の神社―宮崎県児湯郡都つ農の町―、 及び、 越後国の式内社・都つ野の神社―新潟県長岡市宮内町―も、 そのゆかりと判明)

 近江のツナ氏については、 昭和59年、 滋賀県高島郡今津町 (古代角つ野の郷) へ調査にゆき、 予期以上の収穫があったが、 これも未成稿のままである。

 「古事記」 では〈都奴〉、 「日本書紀」 には〈角〉と表記される。 (ツナ・ツヌ・ツノは通音)

 ツナ、 ツノの臣 (おみ) は、 紀ノツナノ臣 (紀角臣 (きのつなのおみ)   複姓) で、 一応タケノウチノスクネ後裔氏族とされているが、 その中の、 蘇我、 紀、 などの諸氏と同様、 私は百済渡来系とみている。 この点は最近20年ほどの古代史研究の進展からも、 追々、 明らかにされてゆく方向にあると思う。

 それにつけても、 滋賀県 (近江国) 高島郡今津町北き仰とげの式内社・津つ野の神社の神紋が、 拙宅と同じ 「鶴ノ丸」 であったのには驚いた。 (近江津野神社のは、 神輿は 「鶴ノ丸」、 神社の幕は 「向かい鶴」 である。 「向かい鶴」 紋は、 近江の戦国武将・蒲がも生う氏うじ郷さとの家紋でもある。)

 鶴ノ丸紋は、 高句麗系の家紋だそうである。 (武蔵国 (埼玉県) 入間郡の高こ麗ま神社の神紋も 「鶴ノ丸」。 また、 関ヶ原の合戦で、 石田三成への友情から西軍に組みした大谷刑ぎょう部ぶ少しょう輔ゆう吉隆の旗印は 「鶴の丸」 であった、 と中里介山 『大菩薩峠』 「不破の関の巻」 の六十四に見える。

 近江の津野神社は、 奈良時代、 高島郡の少領 (郡長)・角家足 (ツナノイエタリ=津野神社の祭神の一柱) の邸跡であるが、 藤原仲麻呂の乱に伴い、 後継の帝として塩焼王をかつぎ、 この邸で即位礼をあげさせ、 奈良からの官軍によって滅ぼされている現場である。

 それより300年ほどまえ、 謎の5世紀とよばれる頃、 紀ノツナノ臣の人々は、 朝鮮半島への出兵に軍将として彼地に渡った者が多いが、 なかには帰って来なかった者もいるし、 大和朝廷に仕えるのは嫌だ、 とつむじを曲げて、 周防国都つ濃の郡都つ濃の郷に留まった者もいる。 元来が百済系であったゆえと思う。

 諸国のツナノ臣の行動は、 だいたい理解できるのだが、 唯一つ、 どうも実体のよくわからぬのが、 肝腎の淡路国津名郡津名郷のツナ氏である。

 それまで都奴、 角など、 さまざまな表記をしてきたツナ氏が、 元明天皇の風土記撰述令により 「郡の名は漢字二文字の良字を当てよ」 との命で、 本邑の郡名の表記を 「津名」 と決定 (淡路国の北半分・津名郡) したまでは分かるが、 津名郡津名郷の淡路一ノ宮のイザナギ神社は、 もともと海人族の神だった匂いがする。

 百済系渡来の臣姓としてのツナ氏の匂いはどうも薄い。

 拙宅は、 そのイザナギ神宮の社家 (神官) たる伝承をもつのだが、 昭和46年、 同神宮を訪れ、 現在の神官に質ねたさいも、 とても閉鎖的であった。

 拙宅の伝承 (及び現住所の近所の人のいうところ) では、 豊臣秀吉の淡路・中国攻めのさい、 他愛なくもみつぶされ、 一族すべて滅ぼされ、 わずかに女達と幼児 22代若松) が、 小舟三艘に、 味噌壺の底に小判をかくして、 淡路から紀伊水道をこぎ渡り、 現住所 (当時紀伊国名草郡川辺邑) へ逃れたという。

 幼児・若松が、 のち当地での初代・源太夫という。 (過去帳では、 元和4年〈西暦1618年〉3月9日没。 86歳)

 なお、 津名という姓は、 上記の、 一名 「津つ名なの社やしろ」 ともよばれる淡路一ノ宮イザナギ神宮の神官としては、 ごく自然な姓であるが、 現在、 淡路 (兵庫県津名郡、 三原郡) には、 電話帳にこの姓は一軒もない。 現在の同神宮の神職にも、 ない。 むろん他国にもなく、 拙宅を本家とする一統だけの孤姓である。

 

 〔追加メモ  平成11年〕

 平成9年、 野草社の石垣雅設さんが、 槇佐和子さん全訳精解の 『大同類聚方』 五巻 1992新泉社) を売ってくれた。 石垣さんが 「和方 (和薬) を最も多く伝えている神社はどこと思うか」 というので、 「さあ、 やっぱり大和や出雲のイヅモ系の神社だろか」 というと、 首をふって、 索引を指してくれた。 淡路の津名神社とある。

 「だって、 津名神社というのは通称で、 延喜式からすでに、 イザナギ神社となっているのよ」 といった。 (ちなみに 『大同類聚方』 100巻勅撰、 撰上は大同3年 808年〕 であり、 同年の国史にもむろん記載されている。 また、 『延喜式』 50巻の選上は延長5年 927年〕 120年ののちである。 『大同類聚方』 自体偽書説も強いのだが、 それだけに古代の裏面史に関わる点も考えられぬでない。 少々驚いて、 あとで全五巻を逐一調べると、 「オオナムチ・スクナヒコナの神薬」 (処方毎に名がある) を最も多く伝えているのは、 淡路の津名神社であることがわかる。 さらに、 同神社ではないが、 私の 「古代津名氏考」 で、 同じツナ氏の流れである神社まで含めると、 16 「オオナムチ・スクナヒコナの神薬」 を伝えていることになる。 これは、 大神 (みわ) 神社や、 出雲大社に比べても、 ケタ違いのダントツである。 これはどういうことなのだろう?@じつは、 拙宅が淡路攻めで滅ぼされ紀州に逃げたのは、毒殺嫌疑(つまり秀吉毒殺未遂) による、 と秘かに伝えられている。 A私はこれまでツナ氏が臣 (おみ) 姓であることからも、 「百済系」 のことばかり考えてきたが、 もし、 「オオナムチ・スクナヒコナの神薬」 を担ってきたイヅモ族の神社の一つの中心が (延喜式において朝廷からイザナギ神社に改変される以前の) 津名神社であったとしたら、 大和朝廷との関係もまた微妙になってくる。

 紀州一ノ宮の日前・国懸神宮の先代宮司・紀俊嗣翁は、 「紀州では、 あがら (私達) とこだけが、 ホンマのイッケ (一家・同一系統) やで。 おぼえといてよ」 と言われたことがあるが……。

 政治史による歴史の書き替えは可能である。 しかし、 薬方のような民衆に根を下ろしたものの痕跡は案外、 隠れた裏面史の真実を残しているかも。

 

◆昭和44 1969

 ★1月

 ○ 「日本史のなかの女性 21 女人生命再興の文学―岡本かの子 (上)」 (花泉1月号)

 ★2月

 ○ 「日本史のなかの女性 21 女人生命再興の文学―岡本かの子 (下)」 (花泉2月号)

 ○小説 「秋の瞳」 「昼夜」 12 (2月発行) に発表 (昨年9月作)

 ★3月

 ○ 「日本史のなかの女性 22 おおいなるいけにえと廃墟のうえに―第二次世界大戦と昭和女性」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「日本史のなかの女性 23 参政権獲得と世界平和への誓い」 (花泉4月号) 「日本史のなかの女性」 満二年の連載終わる。)

 ○随筆 「ふりそそぐ花」 全国愛農会機関誌 「愛農婦人」 4月号へ。 『シャロンの野花』 より一部転載。

 朝日新聞4月5日夕刊 「文化欄」 に小説 「秋の瞳」 の評のる。

 ★5月

  「南都八景」 を専正池坊機関誌 「花泉」 に連載をはじむ。

 ○ 「南都八景 1 青葉の下」 (花泉5月号)

 ○ 「岡潔集」 第4巻 (学習研究社版) の月報に 「青春の慈父・岡先生」 のる。

  「文学界」 5月号の 「同人誌評」 で久保田正文氏により 「秋の瞳」 の評あり。

 ★6月

 ○ 「南都八景 2 野猿の声」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「南都八景 3 明日香の女神」 (花泉7月号)

 ○随筆 「月見草」 「愛農婦人」 7月号へ 『シャロンの野花』 から一部転載。

 ★8月

 ○ 「南都八景 4 太子みち」 (花泉8月号)

 ○随筆 「ちいさな感動」 (和歌山県立美術館機関誌 「美術館だより」 (8月号))

 ★9月

 ○ 「南都八景 5 雄々しき観音」 (花泉9月号)

 ★10

 ○ 「南都八景 6 曝涼のころ」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「南都八景 7 紅葉の鎧」 (花泉11月号)

 ○随筆 「こざんまいの紅葉」。 「愛農婦人」 11月号)。 『シャロンの野花』 より一部転載。

 ★12

 ○ 「南都八景 8 冬野」 (花泉12月号)

 

◆昭和45 1970

 ★1月

  「日本の宗教的人間」 を専正池坊機関誌 「花か泉せん」 に連載はじむ。

 ○ 「日本の宗教的人間 第1話 神話のなかの人間原型―大国主神」 (花泉1月号)

 ○随筆 「美しい月」 (和歌山県立美術館機関誌 「美術館だより」 (1月号))

 ★2月

 ○ 「日本の宗教的人間 第2話 人間凝視と黄金律―聖徳太子」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「日本の宗教的人間 第3話 文化と信仰を民衆へ―弘法大師と高野聖」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「日本の宗教的人間 第4話 煩悩を破してかがやく大悲の光―親鸞 (上)」 (花泉4月号)

 ★5月

 ○ 「日本の宗教的人間 第4話 煩悩を破してかがやく大悲の光―親鸞 (下)」 (花泉5月号)

 ○随筆 「鉛筆供養」 (全国愛農会機関誌 「愛農婦人」 5月号)

 ★6月

 ○ 「日本の宗教的人間 第5話 佛として佛道を行ずること―道元」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「日本の宗教的人間 第6話 正法 「法華経」 を末世に投じる預言者―日蓮」 (花泉7月号)

 ★8月

 ○ 「日本の宗教的人間 第7話 無心となって宇宙の詩心に参入すること― 一遍」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「日本の宗教的人間 第8話 民衆の魂・死者の怨霊をよみがえらせよ―世阿弥」 (花泉9月号)

 ★10

 ○ 「日本の宗教的人間 第9話 一粒の誠、 地に落ちて死なずば―吉田松陰」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「日本の宗教的人間 第10話 底辺の白蓮華―諸国真宗 「妙好人」 たち」 (花泉11月号)

 この月、 依頼原稿 (臨時の分) 多忙を極む。

 ★12

 ○ 「日本の宗教的人間 第11話 民衆の生命力、 国つ神と魂ふりの復活―中山みき・出口なお」 (花泉12月号)

 ○ 「敗戦とまぼろしの樟くす」 (和歌山市立川かわ永なが小学校・学校新聞 「川永」、 特集 「川永小学校・今と昔」) 421220日発行、 第8号。

 この月、 真言宗総本山・高野山の華道局の機関誌復活、 創刊号に依頼原稿 「はまなす物語」 20枚) を書くも、 編集過程にて、 大僧正の検閲を通らず、 没となる。 (高野聖を再認識すべし、 との意図、 通ぜざるが如し。 この稿は、 昭和47年1月号の 「花泉」 に掲載。)

 

◆昭和46 1971

 ★1月

 ○ 「日本の宗教的人間 第12話 神を胎む開拓者たち―北海道 「聖園」 の人々と台湾山地の伝道者」 (花泉1月号)

 ○ 「万博太鼓」 「愛の家」 1月号 全国愛農会月刊誌1月1日発行)

 ★2月

 ○ 「おもかげ」 「飛火野―桜井庄太郎先生追悼文集―」 奈良女子大学社会学研究室編集兼発行。 2月1日刊)

 ★3月

 ○ 「日本の宗教的人間 第13話 民衆の幸福と社会進歩への闘い―幸徳秋水 (上)」 (花泉3月号)

 ○ 「誕生日ありがとう運動」 (和歌山私立みどり幼稚園の新聞 「みどり」 3月発行所収)

 ★4月

 ○ 「日本の宗教的人間 第13話 民衆の幸福と社会進歩への闘い―幸徳秋水 (下)」 (花泉4月号)

 4月から、 神戸の松蔭女子学院大学文学部の非常勤講師となる。 奈良女子大の助手時代、 非常勤講師できていた種山恭子氏 (ギリシャ哲学) の招き。 「キリスト教と文化第二講座―日本宗教史」 を担当。 昭和58年3月まで、 和歌山から通う。

 ★5月

 ○ 「日本の宗教的人間 第14話 宇宙ぜんたいの幸せをめざす みちのくの池湧火山―宮沢賢治 (上)」 (花泉5月号)

 ★6月

 ○ 「日本の宗教的人間 第14話 宇宙ぜんたいの幸せをめざす みちのくの池湧火山―宮沢賢治 (下)」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「日本の宗教的人間 第15話 愛のしもべとして―賀川豊彦 (上)」 (花泉7月号)

 ○ 「七百年まえの夫婦」 (全国愛農会機関誌 「愛の家」 7月号)

 ★8月

 ○ 「日本の宗教的人間 第15話 愛のしもべとして―賀川豊彦 (下)」 (花泉8月号)

 ★9月

 ○ 「日本の宗教的人間 余話 その地湧は尽きず」 (花泉9月号) 「日本の宗教的人間」 満二十ヶ月の連載を終わる。)

  「日本の宗教的人間」 シリーズの中に追加稿として、 「民族の悲心と風雅の魔心  松尾芭蕉」 を書き下ろす。 (のち単行本化のさい〈第9話〉とし、 以下順次、 ずらす。)

 ★10

 ○ 「稲の音・風の音」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「こっくりさん」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「婦人服とポケット」 (花泉12月号)

 ○ 「荒廃のなかの小さな工夫」 (全国愛農会機関誌 「愛の家」 12月号)

 

◆昭和47 1972

 ★1月

 ○ 「はまなす物語」 (花泉1月号)

 ★2月

 ○ 「誤植」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「門出」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「雛流し」 (花泉4月号)

 ○ 「入学式寸感」 (全国愛農会機関誌 「愛の家」4月号)

 ★6月

 ○ 「生きる力」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「高松塚」 (花泉7月号)

 ★9月

 ○ 「二○二○ (上)」 (花泉9月号)

 ★10

 ○ 「二○二○ (下)」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「レジャーの旅」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「いのちの安全と愛国ということ」 (花泉12月)

 大学時代に借りた日本育英会の奨学金を、 この12月で全額返納した。

 

◆昭和48 1973

 ★1月

 ○ 「日ひのうつろい 1 小正月」 (花泉1月号)

 ○ 「愛農青年の皆様へのお願いと期待」 (全国愛農会機関誌 「愛の家」 1月号)

 ★2月

 ○ 「日のうつろい 2 侘わび助すけ」 (花泉2月号)

 ★3月

 ○ 「日のうつろい 3 亀」 (花泉3月号)

 ★4月

 ○ 「日のうつろい 4 春の雲」 (花泉4月号)

 祖母上 88歳) 痴呆症状ひどく、 昼夜徘徊はじまる。

 ★5月

 ○ 「元禄師弟道中 1 衣がえ」 (花泉5月号)。 この 「元禄師弟道中」 は昭和52年7月まで、 満4年3ヶ月に及ぶ連載となる。

 ★6月

 ○ 「元禄師弟道中 2 出会い」 (花泉6月号)

 母上、 過労にて入院。 病院に泊まり込んで看取る。

 その間も河出書房新社より出版予定の 『日本の宗教的人間』 の校正あり、 病室にダンボール箱を据えて行う。

 神戸の大学の講義は夏休みに入ったが、 津名塾の7─8月は、 友人・岩井猛氏、 補ほ陀だ房子氏の助力を得てしのぐ。 感謝也。

 ★7月

 ○ 「元禄師弟道中 3 伊賀びと」 (花泉7月号)

 7月22日 母上・寿賀子死去。 63歳。

 ★8月

 ○ 「元禄師弟道中 4 悲報来」 (花泉8月号)

 8月2日 祖母上・志女子死去。 88歳。

 ★9月

 ○ 「元禄師弟道中 5 配所の鷹」 (花泉9月号)

 ★10

 7〜8月、 母上・寿賀子・祖母上・志女子の相次ぐ死去により筆を絶ち、 10、 11両月発表作品なし。

 ★11

 1122 (母、 四ヶ月命日) に下記の著書出版となる。

 

 〔著書出版〕

  『日本の宗教的人間』

  発    所 東京 河出書房新社

  発    者 中島 隆之

  カバー装画 小野 元衛

  装   丁 荒田 秀也

  印    所 暁 印 刷

  製   本 岸

  発行年月日 昭和481122

        初版一刷発行

         (母、 四ヶ月命日)

        B6判 264ページ

  定   価 780

 

 二冊目のこの著書は 「亡き母 津名寿賀子の霊にささぐ」 の献辞を、 第一ページに置かれた。

 ★12

 ○ 「元禄師弟道中 6 ふるさとと花と異邦人」 (花泉12月号)

 

◆昭和49 1974

 ★1月

 ○ 「元禄師弟道中 7 山桜と陰かげの道」 (花泉1月号)

 毎日新聞 (大阪本社版) 1月29日付夕刊 学芸欄に 『日本の宗教的人間』 の書評のる。

 ★2月

 ○ 「元禄師弟道中 8 楠木正成の忍法」 (花泉2月号)

 朝日新聞 (和歌山版) 2月1日 朝刊に 『日本の宗教的人間』 を出版した著者のことが載る。

 毎日新聞 (和歌山版) 2月9日朝刊に 「好評の 『日本の宗教的人間』」 が載る。

 週刊和歌山新聞2月の読書欄に 『日本の宗教的人間』 と著者のことが載る。

 ★3月

 ○ 「元禄師弟道中 9」 (花泉3月号)

  「誕生日ありがとう運動機関誌ボランティアのしおり」 良書紹介欄に 『日本の宗教的人間』 紹介載る。

  「全国愛農会」 機関誌月刊 「愛の家」、 「万教大和」 両誌に 『日本の宗教的人間』 紹介載る。

 ★4月

 ○ 「元禄師弟道中 10 史と文と」 (花泉4月号)

 社会福祉法人 「白川学園」 機関誌 「つくも」 83 (昭和49年4月号) 巻頭論文に桧前敏彦氏 「かくれたる道」 と題する 『日本の宗教的人間』 の史観を福祉理念に発展させた論文載る。

 国民協会新聞4月1日号 文化欄に 『日本の宗教的人間』 の書評載る。

 ★5月

 ○ 「元禄師弟道中 11 虚と実と」 (花泉5月号)

 世界学生新聞 5月11日号に 『日本の宗教的人間』 の書評のる。

 ★6月

 ○ 「元禄師弟道中 12 大阪余話」 (花泉6月号)

 ★7月

 ○ 「元禄師弟道中 13 ふかしぎ人じん」 (花泉7月号)

 ○ 「鎮魂の季節 魂ふりの季節」 (佐保会報―奈良女子大学同窓会報108号 49年7月5日刊 巻頭文)

 この佐保会報13ページに 『日本の宗教的人間』 の紹介のる。

 ○ 「『この子らを世の光に』 までの遠い道」 (誕生日ありがとう運動・ボランティアのしおり105号 昭和49年7月1日刊 巻頭〈今月のことば〉)

 ○ 「母のこと」 52枚) (『津名壽賀子先生追憶集』 のうち) 和歌山市立川永保育所有志の会刊 昭和49年7月22日 一周忌刊)

 

  『津名壽賀子先生追憶集』

  発 行 昭和49年7月22日発行

      (代表) 武内 正次

          宮本 かすみ

  発行所 和歌山市立川永保育所

      卒園生有志の会

      和歌山市川辺650 (武内正次方)

      A5版 120ページ

      口絵写真4ページ

      本文挿入写真多数 (非売品)

 ★8月

 NHKラジオ第二放送 「宗教の時間」

 ○ 「かくれたる道の人々」 放送

  8月18日 am 5時30分〜6時。  pm 5時〜5時30 (再)

  8月21日 pm 2時30分〜3時。 (再々)

 

 読売新聞8月17日号 (朝刊) 和歌山市版に 「やさしかった津名先生」 の題で 『津名寿賀子先生追憶集』 の記事載る。

 ★9月

 ○ 「元禄師弟道中 14 霧のむこう」 (花泉9月号)

 ○ 「愛魂祭に参列して」 (全国愛農会機関誌 「愛の家」 9月号)

   社会福祉法人 あさみどりの会 (名古屋) 発行 「あさみどり34号」 の記事に桧前敏彦氏 「コミュニティ・ケア」 『日本の宗教的人間』 のかくれたる道について触れ、 伊藤方丈氏 「補説かくれたる道について」 の補説あり。 またおすすめする本欄に載る。

 ★10

 ○ 「元禄師弟道中 15 過去世」 (花泉10月号)

 ★11

 ○ 「元禄師弟道中 16 いさり火」 (花泉11月号)

 ★12

 ○ 「元禄師弟道中 17 無音の笛」 (花泉12月号)

131. 2006年3月刊)

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