津名作品のプロフィール

 

 津名道代(つな みちよ 1933年[昭和8年]〜)の作品類とその世界を紹介します。

 

 彼女は自分の作品を「作物(さくもつ)」と呼ぶクセがあるようです。

 とすると彼女自身は土・畑というわけでしょうか。

 そういう素朴な考え方に、彼女の育った環境がおのずと出ているかもしれません。

 

 無自覚のまま「作物づくり」を始めた原点は、この世代に共通するように、やはりあの大戦と敗戦前後の子供体験にあるようです。

 彼女の場合も、聴力を失うという個人崩壊・家の崩壊・国の崩壊――可笑(おか)しいほどみごとに、一気に来た三重の崩壊感覚が、内なる土耕(どこう)の習性を身につけさせたかも…。

 作物の品種はやがて、歴史・宗教方面へ、さらに少しあとからは、障害者問題をめぐる作物も加わってゆきます。

 が、彼女自身はこれらの多種性をも、生身(なまみ)の自分という一つの土壌から必然的に生まれ育った同質の作物群、と捉えているようです。樹にたとえれば、同じ根・一本の幹から分かれた、姿異なる枝にすぎず、共通の樹液、同じ印(しるし)の葉をもっている、と。

 

 こういう枝分かれは、じつはごく初期の短篇習作(同人雑誌の小説)にも、はっきりとみられます。「陪塚(ばいちょう)」には歴史の陰の部分への興味が、「『南無阿―』の由来」には「信」というものを、まるきり白紙の一存在として心の闇の中に探る試みが、「秋の瞳」には障害児視座からの大人・国家への問いかけが、幼稚ながら出ています。

 これらの時期をへて、やがて三、四十歳代の、彼女の「人間学」の基礎となる二著書、

   『日本の宗教的人間――隠れたる道の人びと』

   『交わりの人間学――障害者によるボランティア論』

が生まれています。この二つは、例えば図書館の分類上では部門が遠く離れて置かれますが、彼女にとっては同じ幹の両面だそうで、併せて読んでいただければ嬉しいそうです。

 人間学―などとむずかしげに言うのが彼女の悪い癖ですが、なに、つまりは、こういうことらしい――「世のあらゆる社会現象は、ひとりひとりの人間性という土壌が(互いに他者から照らされ・砥(と)がれ・相対化されることをも通じて)豊かで、かつ厳しく在(あ)らないと、その上に育つどんな人間関係も、宗教も科学も、痩せ・ひからびる。また、自他を破滅に導く妖怪と化す危うさをもつ。まず人間。」との意識です。

 彼女のこの考えの芯は、『師父抄』(正続七冊。私家版)に記されているような、それに先だつ二十年間のヨタヨタ歩(あゆ)みから培(つちか)われたもののようです。

 随筆集『シャロンの野花』の序文の筆者に「津名君は花をも植物をも、人生の入り口として、いやむしろ、思想の中で見ている。賛否はともかくとして……」と言わしめた青臭い彼女。そんな彼女に、三十歳代の半ばから、生業の傍ら、行動に新しい枝が生じていました。他部門の障害児をめぐる或るボランティア団体に参加しだしたことです。それがやがて、四十歳代の初期から自身の障害部門で「全国難聴者連絡協議会」(現、社団法人・全日本難聴者中途失聴者団体連合会)の設立に参画することにつながってゆきます。

 一般社会の職場とは立場も意味もちがう組織のなかで、おもに広報や機関誌編集の部門を担当し、“障害者自身が人間として生きる理念づくり”にも心をひそめる日々。その方面の作物が急に量を加えてゆきました。能力的には疑問ですが、彼女なりのそれまでの人間学や、ボランティア経験もふまえた、一種の「複眼」が、肥料ともなったようです。

 それらは『聴覚障害への理解を求めて――発言@』『同、発言A』に順次収録。さらに平成に入ってからは「難聴者の生理と心理――知られざる人間風景から」の機関誌長期連載が今も続いています(この作物については、末尾の〔追記〕参照)。

 また、歴史方面の作物として三十歳初めに長篇「日本史のなかの女性――おおいなる姉たち」も書いた彼女は、改めて「障害をもった女性」の問題を考える宿題も負っているようです。

 

 いっぽう、元来の関心の中心をなす「歴史のなかの人間」を描く作業も、並行して続いていました。四十歳代に入る直前から「史談」という自称形式で書き出した、小説とも評伝ともわけのわからぬ長編があります。

 『芭蕉星座』(連載時の原題「元禄師弟道中」)もそのひとつ。《松尾芭蕉は〈伊賀心術〉が日本に贈ったおくりものであった。古代から聖徳太子の情報機関たる志能便(しのび)を生み、中世、楠木正成のゲリラ戦術を生み、観阿弥・世阿弥の芸術を生み、忍者集団を生んだ〈伊賀心術〉は、さいごの末裔として、松尾芭蕉その人を、日本の文化に送った。》と彼女はいいます。また、《日本のこころ表現のひとつの極まりを示した〈俳諧蕉門星座〉。だが、芭蕉は〈もうひとつの星座〉への種子を、実の世にこぼしていった。それは二百年後に勝海舟を感嘆させたところの、初期行商時の近江商人に芭蕉が与えた〈交易売買法、栖み分け、民間自主独立〉の示唆・助言である。》

…というのですから、その視座は奇妙キテレツです。ただ、彼女の芭蕉への関心は、戦争末期、失聴直後に、家の蔵の隅でみつけた古雑誌に「芭蕉は弟子の杉山杉風の耳の遠いのを悲しんで、生涯、聾という語の入った句を作らなかった」とあったことから、心にしまってきた――に始まるそうですから、彼女にとっては一度は書いておきたい作物だったかも。

 

『内蔵助(くらのすけ)、蜩(ひぐらし)の構(かま)え』(連載時の原題「倶会一処(くえいっしょ)――薄紅梅の人」)も同様の史談ものです。

 彼女は、山科の大石内蔵助にこう言わせています、

《「この国に真(まこと)の士道はいまだ生まれておらぬ。亡き殿や私の憤りの底には、この日本六十余州に千年に余ってこもる、血筋、地筋のみえざるあらがいがあるのじゃ。遠い遠い昔に敗れ・卑しめられ蔑視されつづけた筋目の者の、声なき情念(おもい)にもとずく「願(がん)」があるのじゃ。新しい士道を世に問うには、卑しめられた者の来歴を己が身にシカと踏まえねばならぬ。今度(こたび)のお家取潰し、その根は深い。

 それゆえに主税(ちから)。我らの一挙を、吉良殿の首一つをめざす仇討と考えてはならぬ。大公儀への謀反ですらない。あえていわば、理不尽にも人間の血を辱(はずかし)めた、この六十余州“千年の歳月”への仇討と思え。士道はこの上に初めて樹(た)つ。」

 内蔵助はすらりと言ってのけた。言いながら声に夫子(ふうし)の笑いがある…。》

 また、

《主税――。人間は一生のうちに、いや、一族は数百年の間に、一つの「志(こころざし)」を世に顕(あらわ)せば足りるものかもしれぬのう。理は血に深く根ざさずては生きぬ。同時に血は理にまで昇華されてこそ「願」となる。願とは普遍の福祉をめざす志じゃ。

 塩は身を消してモノの腐敗を防ぐ。今生を赤穂藩に生き赤穂藩と共に終える我ら、赤穂塩の心はそのようでありたいと私は思うのじゃ。

 心を残すとは、自身の憎しみを世に残すことではない。行動によって人間の証(あかし)を残すことじゃ。一枚の小さな花びらが風に飛ぶとき、花というものの姿全体がおのずから現れる。仮りにこれを飛花残心とよぼう。そこに 士の心=志 がある。》

 

 どうも上の二作あたりから彼女の関心は、歴史の中の「ひとりの人間の行動の底にこもる情念」と、それが無意識に根ざしているらしい「この国の歴史の地底を流れる、蔽(おお)われ隠れた情念」との関係をさぐる方向へ、収斂(しゅうれん)して行きつつあったようです。

 それが五十歳に入ろうとする頃から、道成寺清姫伝承やヤマタノオロチ伝承を見直すことを手始めに、改めて、〈日本「国つ神」情念史〉シリーズという、一連の、やくたいもない「未知」種の作物を育てる、鍬入れとなって行ったのでしょうか。

 〈情念〉の用法も、一種独特です。――人間のこころには、重層した流れがあり、見えやすい表層から奥へ順にいえば、思想・精神・情念、となる。と、彼女は言います。

 (1)まず、自覚できる意識の層。(そこにさまざまな情念の花が咲く。)この層は、本人を持続的につらぬく、こころのリズム。これがいわば、〈精神〉の層の流れ、だと。 
 (
2)その精神がさらに結晶して、その人の個性を持ったメロディーになり、他者からもその色彩・造形がくっきりと認められるようになると、〈思想〉とよばれる。

 (3)しかしまた、こころの意識の層の下には、本人には自覚できない、無意識の層もひろがり流れている、と聞く。見えない地底のマグマのように。―このメロディーやリズムになる以前の、いわば、無意識の中にもなお、おのずから、音色の別のある深層の流れを、仮に〈情念〉と呼んでみた。

 と彼女は言います。

 そして彼女は、個人のこころの構造と、集団の歴史の流れの構造とは、似ている、との感とどめがたく、個人や集団のこころの歴史に、思想史や精神史という表現があるように、必ずしも単調でない日本列島民族のこころの歩みの深層を探るに、〈天つ神情念〉〈国つ神情念〉などの表現を用い始めたらしいのです。

 ――今も尚この国の人間風土の中を連綿と流れる、二すじの音色異なる情念の瀬音。ときにせめぎあい・ときに協調する、あざなえる縄のごとき「天つ神情念」と「国つ神情念」。その具体を櫛けずり、淵源をさぐり、それらを生かす未来性を求めて、彼女の旅はつづいているようです。

 しかも、彼女にいわせると、これはべつだん、史眼や、まして史観といった高いレベルのものではなく、「世々の、歴史の底に埋もれた、声なき声の瀬音を聴く」こころ運び―〈史耳(しじ)〉―だけが頼りなのだ、と心細いことをいう。お里が知れるというものでしょう。

 還暦の頃、おもいがけず書く機縁を与えられた、生まれ在所の「力侍(りきし)神社」シリーズ四冊にも、その史耳は映っているようです。

 他の多くの短・中篇作物も、以上のような幾つかの枝の、葉群をなしています。

 

 〔追記〕

 この連載は足掛け15年を経て完結、

   『難聴 知られざる人間風景』 上下2巻となりました。

      上巻  その生理と心理   下巻 日本史に探る聴覚障害者群像

 この作物につき彼女は、一人の新聞記者さんの「集大成ですね」という問いに対し、こう応えています、「いえ、叩(たた)き台です。聴覚障害は、外から見えない障害であり、“人間の人間たる所以のコトバ”が聞こえない(コミュニケーション障害)。生物体としては軽い障害のようにみられても、そのじつ、人間としては極めて重い障害です。長い人類の歴史の底で、人間社会への参加を根底のところで阻まれ続けて来ました。聴覚障害者自身による、発言・障害開示・社会参加は、20世紀後半に始まったばかり。21世紀の若い同障者に、この拙著をも叩き台の一つとして、社会の正しい理解の深まりと、バリアの解消、内なる人間性の復権とに、さらに歩を進めてほしいのです」と。

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