私のオイラーとの出会い

 

                    オイラー研究所名誉所長

                        佐々木 力

 

 先日、京都大学数理解析研究所での研究集会「数学史の研究」での講演に赴いた際、会議場に「オイラー研究所」の名前を冠した文書が並べてあった。それらを手にして、私は九州大学の高瀬正仁氏の「仕業」であることをただちに感得した。彼に問い質したところ、たしかに自分が所長だということであった。しかし、インターネットにそのことを明かしてはいないということであった。以前からオイラーにただならぬ愛着心を抱いていた私は、高瀬氏に「私をも所員にしていただけないか?」とお願いした。ところが、高瀬氏は「ただの所員では畏れ多いので、名誉所長なら受け入れる」ということであった。そのような高瀬氏の要請なら断れないと考え、かつ悪名を轟かせている昨今の私には珍しい「名誉職」と思い直し、名誉所長という役職での研究所入りを決意した次第であった。しかし、研究所とはほとんど名ばかり、実態は、高瀬氏周辺の若手研究者数名の有志団体なのであった。

 このような経緯で、日本オイラー研究所は実質的に走り出すことになった。以上の会話は、2007822日午後のことで、翌23日夜には、他の数学史研究者数人と祇園に繰り出し、オイラー研究所立ち上げをそこの由緒ある店で宣言することとなった。オイラー生誕300年目の快挙ではあった。

 京都から横浜に帰還すると、ただちに高瀬氏から、オイラーの名著『極大もしくは極小の性質をもつ曲線を発見する方法、別題、最広義で解釈された等周問題の解答』(Methodus inveniendi lineas curvas maximi minimive proporietate gaudentes, sive Solutio problematis isoperimetrici latissimo sensu accepti, Lausannae & Genevae, 1744)の原典コピーが送られてきた。東京大学大学院数理科学研究科所蔵のかつて見た稀覯書のコピーであった。私をオイラーの無類の称賛者たらしめた著作にほかならない。

 私は、1976年秋からプリンストン大学大学院の院生として本格的な数学史研究に踏み出すことになった。最初の大学院研究セミナーは、科学史・科学哲学プログラムの創設者であるギリスピー教授の「ラプラス・セミナー」であった。そのセミナーで、私は、そのセミナー参加者の中で「数学が一番でき、ラテン語が読める」という理由で、ラプラスの最初の論文を解読して報告する役を割り当てられた。私は、ラプラスについての事績は、ギリスピー教授が編集主幹になって推進している『科学者人名事典』(Dictionary of Scientific Biography)の当該項目を参照すればよいと考えた。ところが、そこのラプラスに関する項目は、「補巻参照」となっており、「後送り」の身分に取り残されていたのだった。ところが、ギリスピー教授のセミナーでの趣旨説明によると、それこそセミナー開設の理由なのであった。すなわち、自らの大事典のラプラスの項目の執筆者を捜したところ、適当な責任のもてる研究者がいない、それで、結局、18世紀フランス科学史を専門とする自らがその責任を負うことになった。それで、科学史・科学哲学プログラムの院生を総動員して、その項目の完成をめざすこととなったよしであった。

 現在、そのラプラスの項目は、補巻に異例のページ数をもって収録されている。私の名前も貢献者のひとりとして明示されている(だが、"Sazaki"という名で!)。ともかく、私はラプラスの最初のラテン語数学文書の解読に取り組むこととなった。私の解読の試みは約2ヵ月続いた。次第に、その論文が、変分法の論考であることが理解されてきた。「変分法」(calculus variationum)という学問名自体、オイラーの命名である。17世紀末の変分問題の登場から探求は進み(最速降下線問題)、それがオイラーの1744年の前掲書で大きな転換を迎え(「オイラーの偏微分方程式」の定式化)、その解析的定式が、トリノの青年ラグランジュによって大幅に簡約化されたことをも私は知った(したがって、変分法の基礎方程式は、今日、「オイラー‐ラグランジュの偏微分方程式」と呼ばれる)。

 青年数学者ラプラスが取り組んでいたのは、その「オイラー‐ラグランジュの偏微分方程式」を第一変分とする時の第二変分をいかに導入するかという問題であった。それは、普通の数学史では、ラグランジュの弟子格のルジャンドルによって成功裏に成し遂げられたことになっている。それでは、ラプラスのその論文の歴史的意義はどうなるのか?

 ラプラスは、ラグランジュの論文に言及するだけでなく、オイラーの1744年の大著にも遡源し、第二変分導入のために苦闘していた。しかし、その導出の過程がどうしても私には数学的に再構成できない。私はてっきり私の数学的能力の不足のせいだと悲観した。

 ところが、転機は、ファイン・ホールにある数学科図書室で、数学史書を博捜している過程に訪れた。その書は、数学における誤謬を羅列したフランス語の本であり、ラプラスにまつわる誤謬がやたら多かった。私は、ラプラスが正解を導き出したのではなく、十分な数学的根拠なく、第二変分を導き出した可能性が濃いことを直観し、この方向から問題に攻めることに転換した。

 ギリスピー・セミナーでの私の報告の順番が年末に巡ってきた。私は「ラプラスは最初の論考で大きな誤りを犯した」と発表を切り出した。ギリスピー教授以下、聴衆は驚いて聞き耳を立てているらしい様子であった。そのセミナー終了後、私はギリスピー教授が、私のアカデミック・アドヴァイザーのマホーニィ先生に話しているのを側聞した。「Chikaraが偉い仕事をやった云々」というのである。

 私は、1977年年初に、改めて大学院主任のギリスピー先生に呼ばれ、口頭発表をしっかりした論文にまとめるように言われた。論文執筆後、再度、称賛の辞を頂戴し、私は米国の科学史専攻の院生に与えられる最高の賞「シューマン・プライズ」に応募するよう推薦されたのだった。しかし、私の論文は、ギリスピー教授らの間では常識になっていたラプラス科学のナポレオン体制との蜜月的関係などを指摘したフォックス説を度外視している点をも批評された。だが、その点は、私にとってもむしろ歓迎すべき指摘であった。私自身の内的な数学史的分析を外的に補強してくれるからにほかならない。

 ちょうど、私のラプラス論文執筆中に、高等学術研究所で、アンドレ・ヴェイユによるオイラーを顕彰する講演があることを聞きつけ、大学の数学教授の岩澤健吉先生ご夫妻と一緒にその講演を聴講した。私がヴェイユの顔を見た最初であった。ちなみに、私はプリンストン留学中、岩澤先生ご夫妻にことのほか大事にしていただいた。

 その後、高等学術研究所の数学教授のハーマン・ゴールドスタインが変分法の歴史に取り組んでいることを知り、彼の講演を聴いたり、また、私の当該論文を点検してもらいに研究所の彼の研究室に足を運んだりした。ゴールドスタイン教授によれば、私の論文は、ある意味で当然視されうるということであった。ちなみに、このゴールドスタインこそ、フォン・ノイマンの副官として、高等学術研究所でコンピューター開発を推進した数学者であった。

 私のラプラス研究論文は、04年夏、京都での「数学史の研究」で口頭発表したものの、未だ書面にはなっていない。しかし、私にとって実に思い出深い研究史の一章となっている。

 以上が、私のオイラーとの出会いのエピソードの基幹部分である。

 現在、私は、岩波書店から公刊予定の全二巻からなる『数学史』を鋭意執筆中である。人類の長大な数学史の最初の大きな転機は、古代ギリシャの公理論数学の成立によって刻印された。それは、数学を未曾有の厳密な学問になした。第二の転機は、アル=フワリズミーのインド数学のインパクトが大きいアルジャブル文献とともに訪れる。西暦紀元9世紀初頭、バグダードにおいてのことである。それ以降、数学は代数化し、近世西欧のデカルトとともに本格化し、20世紀初頭の抽象代数学の登場をもって完成の域に達する。今度は、20世紀後半からの電子コンピューターの登場とともに、数学のディジタル化が急速に進行し、第三の時代が始まっている。それぞれが、ほぼ千年に一度の大転換と言っていいだろう。このような筋書きでグローバルな人類数学史は転換しつつ、展開する。

 わがオイラーは、しばしば「数学者の王者」(princeps mathematicorum)と呼ばれるが、現実には第二の代数化の時代の頂点を刻印すべき数学者である。デカルトからライプニッツまでの代数解析の思想的系譜を継承し(デカルトが「有限代数解析」、ライプニッツが「無限代数解析」)、彼の後には、ラグランジュとガウスが控える。いずれにせよ、代数解析を体現した大数学者がオイラーなのである。代数的思考がもっとも幸運に飛翔しえたのは、オイラーとともにであったのだ。彼以降、代数的思考は、飛躍的に向上するが、それは精緻になってゆくことを意味し、けっして豊饒さを増したことを意味しない。そんなわけで、オイラーは近代西欧数学の豊饒さの頂点に位置するのである。

 こんな理由で、オイラーの数学は魅力的である。彼は、近代西欧音楽史の中のハイドンなり、モーツァルトと同様の位置にいる。近代西欧音楽の古典時代である。ライプニッツはさしずめ「バロック音楽の王者」バッハに比肩されうる。いずれにせよ、近代ヨーロッパのもっとも幸福な時代の数学者がオイラーなのである。

 オイラーは人間的にも魅力的である。彼の哲学の素朴さが語られたりする。17世紀の、デカルトやライプニッツのような独創的数学者‐哲学者たちと比べれば、そうかもしれない。しかし、彼は30歳ちょっとで右目を失明し、さらに60代半ばには両眼を失明した。それで、あのたぐい稀な学問的生産力なのである。私たちを人間的にも魅了してやまないゆえんである。

 科学が必ずしも累積的に発展するわけではないことを主張したのは、わが科学史・科学哲学の師トーマス・S・クーンであった。すばらしい音楽と同様、すばらしい数学は古くならない。オイラーの数学は、そのような数学の古典なのである。

 こんなエッセイをもって、日本オイラー研究所の立ち上げの宣言としたい。

 (SASAKI Chikara, Honorary Director of the Euler Institute in Japan;

  東京大学大学院総合文化研究科・数理科学研究科教授)

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